匂いの予感
バルセロナで出会った日本人ヨットマンが末期癌だと知ったのは、
出会った翌日、停泊中のヨットの上で乾杯したときだった。
地中海の紺碧の空。カヴァと潮の香り。
甘酸っぱい匂いだった気がする。
あれはもう三年半前、になるのか・・・。
彼は私と別れた直後、
バルセロナを出港し世界一周の旅へ出た。
そして洋上から何度も電話をかけてきた。
「ジブラルタル海峡って流れが速くてコワイくらいだよ」
「カナリア諸島に今上陸。懐かしい感じがするのが不思議」
「今何してると思う?大西洋横断レースに参加してんのよ」
「カリブ海にはすんごいヨットがいっぱい」
「もうすぐパナマ運河を渡るから、おいでよ」
「嵐にまきこ・・・ま・・れたみたい」
「浄水器が壊れたから次の停泊地に手配しといてお願い」
「ガラパゴスで待ってるからね」
なんだか分からぬ手配でてんやわんやしながら、
停泊地から送られてくるテキストと画像データを
私は彼のブログにアップし続けた。
いつまで続けられるか、とハラハラしながら。
「これから南太平洋へ向かいます」
「バリ島いいよお」
「ニュージーランドってすごいね」
「オーストラリアを北上しまーす」
「台風で動けないよ」
「やったよ。宮古島に着いたよ!」
着いたのか。良かった、ホントに良かった。
と灌漑に浸っていたら、間髪いれず、
「次は逆回りでスエズ運河抜けてバルセロナかな」
というメッセージが届いた。
こりねえなあ、大馬鹿もんがあ、と、言いつつ、
私は自宅でとっておきのシャンパンをあけた。
彼は居住地を鎌倉から宮古島に移す準備をしている。
「南方の人たちって、なんでみんないい加減なんだろ。
もう、どんどん問題が出るわ出るわで大変なのよ」
と、泣きごとが続いていたんだけど、
こんなメッセージがつい先日届いた。
「川口さん、長崎っていいねえ。
おくんち、すごいわ。蛇踊り(じゃおどり)を桟敷席で観たよ。
文化の厚みが違う。そんなとこに川口さんいたんだね」
宮古島から沖縄、奄美大島、種子島と経由し、
長崎に一週間ほど停留し、五島列島から平戸、
唐津、壱岐、対馬と巡り、とって返して上五島の
隠れキリシタン教会を見て回りたい、なんて言ってたくせに、
一か月前から長崎にヨットを停泊中とのこと。
地元民でも蛇踊りを桟敷席で観ることほとんどできないのに、
また、何やら手を回してちゃっかり堪能したようだ。
心配をよそに彼はしっかり生きている。
ついさっき、あのバルセロナでの匂いが、突然、
私の鼻にもどってきて、戸惑った。
なぜだ?
とっさに、
奇跡的に生きながらえている彼の健康状態が気になった。
いやいや、
彼は今頃ちゃっかり、どこかの居酒屋で、
ガッハッハアと笑いながら、
友人たちと騒いでいるのかもしれぬ。
夜が明けたら連絡をしてみるかな・・・。
彼が三年半前にヨット上で語った言葉を思い出す。
「自分に正直になりなさい、川口さん。
しがらみから自由になる勇気って大変だけど、
一歩踏み出してしまえば、案外簡単なことだよ。
最初はしんどい。ホントにしんどいけどね。
人生は自分のものだから、何を気にしてるの。
人生って誰のものでもない。あなたのものでしょ」
その半年後、私も大腸癌の手術を受け、
それから一年ほど抗がん剤治療などで悩まされたものの、
つい先日、担当医から「三年後の転移なし。よかったね。
次は一年後に会いましょう」なんてことになるとは、
一寸先は分かんないものだ。
あの匂いは、この世と彼岸をつなぐ匂いなのか。
あの匂いは、なぜ今また、ただよい始めているのか。
あの匂いが、今また何かを変える予感をさせる。
「覚悟しろ」
と誰かに言われている気がする。
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