有機体への希求
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月曜日、午後3時。茅ヶ崎より朋来たりて、品川にて落ち合う。人形町から品川まで電車が乗り入れており、所要時間は15分。距離感が麻痺するほど近い。
彼女はプランナー。若い頃から培ってきたその人脈には舌を巻く。外資系ホテルに長年勤務し、世界各地で働いていたことから、英語やイタリア語、フランス語といった主要な言語をなんなくあやつる。
何を思い立ったか、彼女は独り立ちし、友人たちと新しい事業を始めたのだった。
「まずスペインなのよね」
ということで、ひょんなことから相談に乗ることになったのだが…。確かに、スペインの企画は少しばかり手こずっている。しかし、最初の仕事だからこそじっくり取り組むんだ、という強い意志が見て取れた。なんとか協力してあげたい、という気も起こる、というものだ。
「正念場は次のイタリアなのよ」
という。そこを乗り切ることができれば、フランス、そしてアメリカへと広がる。そんな綿密なシナリオも話してくれた。驚いたのは、どの企画をとってみても、志す目的と方策が5W1Hまで明確なのこと。資金面にも抜かりがない。儲かったお金をどう使うか、というところまで考えているのは、外資系企業で訓練されてきた経済感覚の賜物だろう。
そんなこんなで、品川での話は尽きなかった。こんな元気な女性に接していると、生活費がどうのこうのと愚痴る男や、組織の位置づけにグジグジ文句を言ってる中年おやじたちが、なんともはがゆい。
大切にしたい人のため、守りたい人のためであれば、自分がどんなに格好悪く見えようと、なんだってできるのかもしれない。しかし、自分に潔しとしないのなら、スッパリと降りたほうがいい。無駄な時間は一刻もない。
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昨夜から頭が暴走し、翌日の昼過ぎまでキーボードを叩き続けてしまった。午後四時頃に目を覚ますと、散歩に出た。
郵便局に寄り、カレンダーを発送し、人形町『果山』でカットフルーツとバナナを買って帰る。夕食は豆腐入りミネストローネスープで大汗をかく。そういえば、卵も入っていた。果物は夜食だ。
夕暮れ時にまな板を撮る。部屋に引きこもり、じっと集中して考える時間がとれるのは、今のうち。スペイン行きが近づいている。
テレビドラマ『タイガー&ドラゴン』をビデオで観る。間違いなく名作だ。宮藤官九郎は、やはりすごい。彼が脚本を手がけた『メタルマクベス』がなぜ面白くなかったのか、理由をじっくり考えてみたい、と思う。酷評するだけでは失礼だ。
いいちこちゃんから台湾土産にもらった「金宣(きんせん)烏龍茶」を飲みながら、今夜も自分と対話する。この烏龍茶は、凍頂(トンチン)烏龍茶と同じ青茶。緑茶に近い。今回の茶葉は少し弱い、と聞いたので、茶葉をおしまずたっぷり使って飲んだ。香りも味も際立ち、旨い!
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芝居を久しぶりに観た。先々週の水曜日のことだ。
『メタルマクベス』
この芝居は、はっきり言って駄作だ。「宮藤官九郎」の脚本がタコ。劇団を率いる演出家「いのうえひでのり」は、天才とおぼしき脚本家に対して遠慮しすぎだろう。劇団にふさわしい舞台演出しないといかん。
「劇団☆新感線」の舞台は、別名「いのうえ歌舞伎」といわれ、ここ数年、他を圧倒する舞台を提供してきた。私も欠かさず観てきた。これからもずっと観続けるつもりだが、今回の『メタルマクベス』は、「いのうえ歌舞伎」史上、最低の出来だ、と断言する。「あんた何様よ!」と言われるかもしれないが、面白くないものは、面白くないのだ。今回は、ほぼ追っかけ状態の「松たか子」嬢が出演しているとなれば、やはり、黙っちゃいられない。
「いのうえ歌舞伎」は、奇才「古田新太」率いる「劇団☆新感線」が主体となり、当代の人気役者を人寄せパンダ的に招いて上演される、舞台通にも素人にも楽しめるという、際どい舞台を提供している。今回の芝居には、松たか子嬢が客演するとあって、この劇団の会員である特権を活かし、初日、中日、楽日と三回分のチケットを、優先予約したのだった。
残念ながら、仕事が突然忙しくなり、行けなくなった初日と楽日のチケットを、友人たちにゆずってしまったのだが、その友人に対しても、申し訳ない気持ちふつふつと湧き上がり、舞台の専門家ではないが、劇評を書いてみることにした。
脚本家の発想は斬新だが、設定に必然性のないディテールが多すぎる。ギャグも下劣で笑えない。ギターマニアでなければその面白さが分からぬ設定は、まったく失笑ものだ。観客の9割以上は若い女性なのだ。理解できた客はほとんどいないだろう。聴き手の背景を思い描けないプレゼンテーションに、評価すべき価値はない。
あの“ますみ被告”の毒薬混入カレーの話が、劇中に出てくる。「なぜ、今頃?」と、その選択した時代感覚に疑問が残るのは、私だけだろうか。ギャグにするには、現実味があり過ぎて、笑えない。話題にするには、古過ぎて、記憶の糸をたぐり寄せるわずらわしさが生じる。狙ったであろうオドロオドロしさも、ピンとこない。あとからジワリジワリと押してくるはずの恐怖も笑いも、なぜかやってこない。
かといって、そのエピソードを、後々の伏線にしているわけでもない。
必然性のない部品は、舞台には不要。はっきり言ってつまらない。その話を入れるなら、もっと引っ張って引っ張って、どうしようもない怖さを、観客に見せねばならぬだろう。
劇中には、劇の核となる言葉を潜ませているものだ。それとおぼしき言葉は、確かにあった。しかし、劇中で何度も連呼されるにいたっては、ちょっとあからさま過ぎて白けてしまう。しかも、その言葉たるや、あまりにも直接的で、先が読めてしまう表現ではないか。その言葉が連呼されるたび、その直接的な下劣な言葉に耳をおおってしまった。
そして、そのとき、思ったのだった。まさか、“あの”落ちで締めるつもりじゃないだろうな、と。
劇の大団円がやってきたとき、“その”言葉が発せられたのだった。なんともお粗末な結末ではないか! これまで何度かどこかで使い、滑ったネタをなぜ使うのか。滑ったことをまったく知らず、観客が初めて聞いたとしても、その落ちは陳腐極まりなく、マクベスには似合わない。脚本家は、その滑りをあえて使い、新たな何か特別の効果を狙ったのか。そう考えてもみたが、観客はまったく反応しなかったし、私も、その理由が今でも見つからないままだ。
劇を締めるとき、劇の最後を飾る言葉がある。この舞台でも、勝利の雄たけびをあげる場面があった。しかし、その設定たるや、「それって何? 突然言われても、意味分かんないよお」と思わせるものだった。私は、あまりの唐突さに、本当に椅子からずり落ちてしまった。
もう、どうしようもないできだ、としか言いようがない。
穴だらけで観るに耐えない。テレビや映画では、人気俳優の表情をアップにしたり、踊りや音楽をうまく編集すれば名作に見せることができるかもしれない。しかし、一発勝負の舞台では通用しないのだ。必然性のないディテールはいらない。
繰り返すようだが、はっきり断言する。私が2006年6月7日に「青山劇場」で観た『メタルマクベス』は、駄作だった。
ただし、同じ芝居が大きく化けることもある。『髑髏城(どくろじょう)の七人』がそうだった。二年ほど前に、このブログにも書いている(その記事はこちら→)。このときは、脚本を変えたのが功を奏した。
あれは、もう何年前になるだろうか。つかこうへい脚本演出する同じ演目の芝居を、三度目に観たときのことだった。舞台設定も役者も台詞も、それまでとまったく同じだったにも関わらず、あるきっかけで、劇場全体がひとつの生き物と化したのだ。その瞬間、劇場を包む時間が止まった。そして、その時点から時間が永遠に流れ始めた。時間が止まるなんてありえない。錯覚だとは分かってるが、そう感じさせるものが、そこに確かにあった。
劇が終了するやいなや、観客は総立ちとなり、手が痛くなるのもおかまいなしに、五回にわたるカーテンコールに観客も役者も酔いしれたのだった。あのときの、ナウシカのような小西真奈美の立ち姿は、一生忘れない。
名のある脚本家や演出家であっても、駄作はある。しかし、舞台によってまったく違う感動を観客と共有しているときもある。
当代きっての演出家と称される蜷川氏の舞台にも同じことが言える。今のところ、何度観てもつまらない。演じる者たちにとって蜷川氏は怖い存在かもしれないが、観る側にとっては、少なくとも私個人にとっては、面白い舞台を見せてもらったためしがない。
とはいえ、観る側に問題があるに違いない、時空を超えた永遠の劇場をいつか感じるときがくるはずだと、一万円以上するチケットを、これからも何枚も買うことになるだろう。
『メタルマクベス』に出演している役者たちは、最善を尽くしていると思う。松たか子嬢は恋愛中なのか苦悩中なのか知らないが、少し引き締まった体型が美しく、いつものように、舞台に集中していた。劇団の看板俳優である橋本じゅんも高田聖子も、至る所でアドリブをかましまくり、舞台を必死になって盛り上げていた。
客演の上條恒彦は別格だ。声量も歌唱力も存在感も群を抜いていた。舞台にいるだけでもいい。驚いたのは、森山未來。いかにもカメラを意識した、臭い演技が鼻につくが、鍛え上げたダンスと歌唱力は主役以上だった。親の七光りでデビューする馬鹿息子役として唄ったロック演歌は、本来はひどい出来であるべきところが、この舞台で最高のエンターテインメントだった。シャレでデビューしても、けっこう売れるかもしれない。
気の毒なのは主役の内野聖陽だ。テレビでしか見たことがなかったが、大好きな俳優である。その彼が舞台に立ったとき、何やら嫌らしさが見え隠れしてしまったのは、なぜなのか。情けないマクベスに感情移入できないのは、なぜなのか。雄雄しく立ち上がる勇者としてのマクベスが、かっこよく見えないのは、なぜなのか。
「いのうえ歌舞伎」の名作に『アテルイ』という舞台がある。これは素晴らしかった。その舞台に出演した市川染五郎と堤真一の立ち姿は、見事だった。あの立ち姿とつかの間の時間を共有できただけでも、満足できたものだ。「劇団☆新感線」を主催するあの“デブ”の古田新太にしても、舞台に立つと変貌し、惚れ惚れするほどかっこ良く見える。
二枚目であるはずの内野聖陽が、舞台映えしないのは、なぜなのか。思うに、内野聖陽という役者でなければ出せない独特の雰囲気が、劇中で活かされていない。演劇人としての品格が備わっていないとは思いたくはないが、彼が唄うとき、語るとき、演じるとき、舞うとき、そして見栄を張るとき、その始まりと終わりに、“ため”がない気がする。間が抜けているように感じる。
カーテンコールで最後に迎えられるべき役者は、マクベス役の内野聖陽ではない。熱演した松たか子嬢、あるいは、劇中で群を抜いた存在感のあった上條恒彦だろう。
劇場は太古の昔から存在した。それはなぜか。劇場が異次元の時空間へ人を連れ去る装置だったからだ。必ずやってくる死への恐怖から人を解き放つ装置、時空を超えた異次元の世界に惹き入れてくれる特殊な装置なのだ。だからこそ、神殿と劇場は古代からずっと、隣り合わせに、仲良くその形を遺してきたのではありまいか。
舞台というものは、演じる側だけのものでなく、観る側を惹き込み、劇場全体を別の次元に巻き込む時間軸に連れ去る、演劇をつかさどる神のものなのだ。名札にまどわされてはいけない。
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