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2007年3月21日 (水)

シフトすること

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東京証券取引所(日本橋茅場町)

火曜日はバナナ1本口に押し込み、早朝から外出。さる方の依頼で撮影をするためだ。日本橋らしい建築物をまず何点か押さえる。カラリと晴れ渡った東京は日差し強く、24ミリのシフトレンズを最小限に絞りこんでも手ぶれするほどシャッター速度は遅くならなかった。背負った重い三脚を使うことなく、スナップ風に自由な撮影をすることができた。

日本橋蠣殻町(かきがらちょう)からタクシーをひろう。茅場町でタクシーを待たせて東京証券取引所や日本橋郵便局などを撮影し、日本橋のどまんなか、三井村で下車す。日本銀行、三井銀行、三越は長州藩の流れを組む三井財閥(渋沢栄一)の落とし子たちだ。

ちなみに丸の内は三菱村。土佐藩出身の岩崎家が競り落とした敷地で、コンドルらが活躍したところ。財閥や明治期に力をふるった地方の有力藩の影響は、平成になった現在にも及んでいる。歴代首相たちの顔ぶれを見れば一目瞭然のこと。ちなみにコンドルは、スペインの建築家アントニ・ガウディと同年代。

丸の内や日本橋にある銀行や大会社の本店は立派な造りをしている。銀座、赤坂、永田町もすぐそば。そんな環境の中に身を置いていると、本社づとめで意識が変わるのも無理はない気がする。

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日本銀行

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三井銀行(日本銀行の向かいにある)

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日本橋三越(日本銀行は左手奥はす向かい)

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日本橋(三越のすぐそば)

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日本橋高島屋(日本橋をはさんで三越の反対側)

日本橋から徒歩で小伝馬町、小網町、人形町へと回り、七福神を写真におさめる。午前中に撮影を終え、早々に人形町『芳味亭』にて定番の「ランチ」をいただき、新宿へ向かう。小網町で暮らしていたこともある伊藤野絵(いとうのえ)の生きざまを描いた『ブルーストッキングの女たち』を新宿紀伊國屋ホールで観るためだ。「地人会」三度目の再演になるこの作品は、後世に残る名作だろう。主演は純名りさ。小柄ながら凛とした立ち姿で魅せる女優。期待している。

レンズをシフトして撮影しながら、「のんきに写真を撮ってる場合じゃないよなあ」と、独りごつ。自分の生き方にもシフトをかける時期なんでしょう、きっと。

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2007年3月16日 (金)

坂のある街

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三月もなかばだというのに、冷え込む日が続いている。週末にかけて雪がちらつくという予報も出ている。とはいえ、日差しは確実に勢いを増しており、日陰では冷たさで体が固くなるが、日なたを歩いているとポカポカした心地よい温かさに包まれる。

先日の火曜日、下宿さがしに朝から横浜まで出かけた。横浜の郊外にある大学に合格した姪たちと連れだって丸一日歩いた。

前日までにネットでめぼしい物件を探してはいたが、横浜は不案内なため、まず大学の生協に出向き、紹介物件を見てみることにした。生協には大きなボードが4枚ほど設置され、ボードの上に地域別、価格帯別、不動産別にきちんと整理された物件案内状が一面に貼り付けられていた。学生ボランティアが十名ほど常駐し、物件の案内、不動産屋や大家との連絡を取り仕切ってくれる。

一度に一件だけが紹介され、物件を内覧した後に契約が成立しなかった場合に次の物件が紹介される、というシステム。混乱をさけるためだ。不動産屋が大学まで車で迎えにきてくれるし、短い期間であれば契約を保留もできるし、同じ不動産屋であれば別の物件も続けて内覧可能なため、生協のシステムは機能しているといえる。

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横浜は坂のある街。郷里の長崎と似ている。昔ながらの八王子街道沿いにある和田町というところは、特によく似ていた。姪たちが住んでいる家野町のマンションからすぐ近くにある住吉という街を思わせる雰囲気があった。下宿探し二日目に、姪たちはそこに決めたらしい。

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家族と暮らしていた大きなマンションから、小さな下宿に独り移り住む十代の娘は、きっと心細いに違いない。妹も寂しがるだろう。親は経済的負担もさることながら、遠い土地に娘を一人送り出す心痛はいかばかりなものか。私に思い到るすべはない。

坂のある街が親子の心を落ち着かせてくれることを願う。

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2007年3月15日 (木)

ガウディとコンドル

Img_4181c_2 一週間後にせまった「ガウディ」セミナーにむけ、上野まで写真撮影に出かけたのは3月1日のことだった。お目当ては旧岩崎邸。ガウディのセミナーに旧岩崎邸庭園の写真がなぜ必要なのか。直接の関連はないが、ネタのひとつとして仕込んでおきたかったからだ。そのセミナーはJTBが主催する「美術・建築の旅」の説明会に組み込まれたもので、いわば営業の一貫。とはいえ、バルセロナの友人、田中裕也氏が関わる旅の企画であり、いったん引き受けたからには、手抜きはしたくない。というか、こちらも楽しませていただきたい。

この写真は洋館の「サンルーム」から外を眺めた様子。

旧岩崎邸は、日本における近代建築の黎明期に活躍した、ジョサイア・コンドルという英国人建築家が設計したもの。若干25歳の若さで来日したコンドルは、建築工学校(後の東京大学建築学部)で教鞭をとり日本の建築界を担う人材を育てつつ、自らも丸の内煉瓦街や鹿鳴館、岩崎邸など、典型的な英国ビクトリア朝の洋館を建築した。彼の一番弟子たちには工学校第一期生の曾禰辰三(そねたつぞう)、辰野金吾(たつのきんご)、片山東熊(かたやまとうくま)らがいる。彼らは東宮御所、迎賓館、東京駅など日本を代表する建築物を次々と手がけていった。

コンドルと同じ歳のガウディは、バルセロナの地で26歳にしてようやく建築家の称号を得たものの、これといった大仕事もなく、数年は大学の恩師であり師匠にあたるホアン・マルトレールや、工匠ホセ・フォントセレーらのもとで下働きをせざるをえなかった。

そんなガウディの人生を大きく変えるできごとが起きたのは、彼が31歳のとき。恩師マルトレールのはからいで、新しく建築し始めたばかりの教会の主任建築家に抜擢されたのだ。

教会の名前は「サグラダ・ファミリア贖罪教会」。サグラダ・ファミリアとは聖家族のこと。聖家族とは、キリストとその両親、マリアとヨセフの三人。その三人をおまつりする教会が「サグラダ・ファミリア贖罪教会」というわけだ。当時その教会の建築が開始されたことを知る者はほとんどいなかった。なぜなら、聖ヨセフが守護聖人としてヴァティカン公会議で布告されたのは、ほんの十数年前(ガウディが18歳のとき)のことであり、その教会を主催する「ヨセフ信心者協会」は、単なるひとつの新興信仰にすぎなかったからだ。

今でこそ世界遺産のひとつとなっているが、当時はガウディが教会の主任建築家になったことなど、数年の間ニュースにもならず、誰も知らない興味の対象にない存在だったのだ。重要なことは、ガウディにとって教会建築家の称号と地位が、経済的な安定を保証すると当時に、宗教や政治にかかわる重要人物たちと接触する機会が一気に広がるきっかけになったこと。そして、ガウディの名声はグエル邸を建築して一気に広がるのだが、それは三十代後半のことだった。

そんなガウディと比較し、コンドルという人物は、年若くして「お雇い外国人」として破格の給与をもらいながら国づくりの一翼を担っていた。そんな話を説明会でのひとつの振りにしようと思っての写真撮影だったのだ。

しかしながら、3月7日の説明会に要した時間は約一時間。脇道にそれている時間的な余裕はなく、晴れ渡った空の下で撮影した岩崎邸の写真は、すべてお蔵入りとなってしまった。

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<洋館の正面>

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<洋館の背面、広い中庭がこの前に広がっている>

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2007年3月 1日 (木)

新富町

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水曜日午後一時。東銀座「レストラン早川」にて5つ星と評されるオムライスをいただく。700円なり。その足で隣駅の築地へ向かう。新富町の中央区役所は駅から徒歩5分ちょっと。「あっ旋相談」の担当者に事業計画書や決算書や各種証明書など、揃えるべき資料を提出。「不備なし」というわけで、あっけなく終了。役所玄関前で190円の「ヘルシア緑茶」を乾いた喉に流し込む。緊張から解放されたのか、ひとつ大きなため息が出た。東京メトロ「築地」駅へ抜ける路地でつかまり何枚か撮影す。光が白くなってきた気がする。

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